どうも皆さま、ボンジョルノ♪
ボンの夏休み話も明日で最終回。
▼前回のお話
今日は、最終回直前、島の暮らしと現地の人のお話です。
秘境の島フィリクーディの暮らしを現地の人に聞いてみた!
毎夏お邪魔するフィリクーディ島は、世界遺産のエオリア諸島の端っこにある小さな島。
パレルモから2時間半で到着できますが(夏のみ)、日帰りツーリストが比較的少ないまま。なぜなら…何もないからw(「何もないがある」んですよ)。
そんな秘境感漂うこの島の人々は、かつて農業で生計を立てていましたが(と言っても自給自足レベル)、高度経済成長期には、世界各地…主にアメリカとオーストラリアへの移民が盛んになりました。
平らな土地がない島で、耕作も大変、その上、電気もガスも水さえもなく、車道もない島の暮らしはとても大変だったから。
電気が通ったのは90年代。伝統エオリア建築の家々は雨水を集めて地下に貯蔵する仕組み。今は、”水の輸送船”が日々やってきます。
ゴロゴロした石を積み上げたのは、ロバと人力。
▼今も重い荷物を運ぶのはロバ。以前、TVの取材でも登場してもらったマルゲリータさんと交流するボンさん。
跡を継ぐ人もいない家屋が打ち捨てられた島は、70年代頃からヒッピーの島となりますが、80年代頃から先見の明のあるリッチ層がそんな家々を二束三文で買って、美しい別荘に改装。今は別荘族の島になってます。
若かりし頃から通っていたピンキー(夫)や周辺の人たちから、80年代以降の話は聞けるのだけど、ヒッピー島になる前はどんな暮らしをしていたのか、なかなか知る機会がありませんでした。が、
今回、お世話になったご家族(ガチの島民)に、昔の話をチラホラ聞けました。
かろうじて残っている写真で比較!ビフォー・アフター
お母さんのお母さん代に、島も高台エリアで唯一の雑貨屋さんをしていたご家族で、まだアスファルトで整備された車道もなく、そもそも車もなく。港から何キロもの野菜やなにやらを担いで、1日に何度も往復していたのだとか。
なんて話と共に、お母さんのお母さんのお母さん、つまりひいおばあさんが住んでいた昔の家の写真も見せてもらいました。
改装前の2006年の写真。 そして改装後→
今もそっくりそのままの構造が残ってます。もう使ってないけど、雨水を貯める井戸も。美味しかったそうですが、ピロリ菌が心配です。
石造りの家って息が長い…基礎をそのまま使えるから、活用方法もいろいろ=超エコですよね。
さらに下の階に降りると、炭火焼の釜も。
電気が通った90年代まで、ランプで暮らしていたそうですけども、その頃、海を挟んで向こう岸に見えるシチリア島では、普通に電気を使っていたわけですが…、
「島からシチリアの灯を見て、国や行政への不満とかありました?」
などと聞いてみると、「あっちはあっち、ここはここ。電気のない暮らしが当たり前で、比較してどうこうなんて思わなかった」そうです。もっと深掘って本音を聞いてみたいものです。
漁師のいない島で大量に実るイチジク
かつて小麦も栽培して自給自足していた畑には、オリーブ、イチジク、ブドウ、イチジク、カッペリ、イチジク…、イチジクが大量に実ってますが、大量生産とは程遠く、今も自家消費がメイン。
そういえば、島だから漁師が多いかと思えば、趣味以外で漁をする人はゼロ。農業がメインというのは、イタリアの島には多いのでしょうかね。パンテレリア島も同じでした。日本の島は、漁師が多いですよね〜。
その上、泳ぐ習慣がなくカナヅチの人もいるんだとか。海は、恵みをもたらすものではなく、目の前にはだかる脅威…なのかも。
お母さんは、シチリア出身のお医者さん(僻地医療を担っていたDr.コトー)とご結婚されて、お母さんのお母さん、そのお母さんの家々は、今は別荘として人に貸したり、自分たちが過ごされているようですが、お母さんのお母さんの時代、つまり写真を残す余裕のない時代の写真は、余裕がないからないそうで(そりゃそーだw)、写真や公文書って残しておかないと後世に残らないんだなぁ…と改めてしみじみ感じました。
フィリクーディ島にも、ちっさい4畳半くらいの民族博物館はあるけど、雑貨だけだし。リパリ島にはきっちりした博物館があるらしいですが。
すっかり仲良くなったので、来年もきっとお世話になりそうw。そしたら、また昔話を聞きたいものです。
▼最終回!帰りの船でマスク騒動勃発の巻き。
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