どうもー皆さま、ボンジョルノ♪
一昨日のマフィア『コーザ・ノーストラ』の最後の大ボス逮捕の件で、各メディアの報道合戦がすごいことになってます。昨日は隠れ家が発見され、「ブランド物の服や香水、バイアグラが!」とか、ご近所の人にインタビューとか(普通の人の暮らしぶりだったって)。
ミヤネ屋かっ!ってくらい掘り下げてて、ちょっとウンザリしてますよ。
※隠れ家は、サン・ヴィート。パレルモから100kmほど離れたカンポベッロ・ディ・マッザーラの中心地で住所まで報道されてます。そこに少なくとも半年はいたらしい。そんな遠くからパレルモの病院に通ってたのねぇ…。
ホームドクターも警察の調査を受けることになり、知らなかったらしいからちょっと気の毒。
それに…件の病院も頭の悪い人たちからネット上で総攻撃(なんでやねん・怒!)もあり、恐らく苦情(?)電話なども…あるんだろうと思われ、連絡が取れない状況になってます。。。
▼通ってる病院が同じだったことで影響受けてる…。
ガン病院ですよ?迷惑なんですけど。義父の病状も思わしくなく、今週主治医に会う予定だったのに。
30年前の被害者の心の痛みはまだ消えようもなく
さて、昨日、この件で「映画ゴッドファーザーとシチリアのマフィアを混同するのはどうかしてる」と書きましたが、それはなぜか。

今回の逮捕で再び浮き彫りにされた象徴的な事件とその家族のコメントをご紹介しますね。
ボス逮捕、酸で溶かされた小さなジュゼッペの兄弟が語る
“病気だと読みました。できれば長生きをして、出来るだけ長く、私の兄、無実の小さい男の子に課した同じだけの苦しんで欲しい”
ニコロ・ディ・マッテオは、30年の逃亡の末、パレルモの病院で逮捕されたコーザ・ノーストラのボス、マッテオ・メッシーナ・デナーロのニュースを前に、喜びは感じない。喪失感、そして彼の幼い兄弟がどのようにして殺されたのか。とてつもない痛みが、今も消えてはいない。
小さなジュゼッペは、1993年11月23日の午後、メッシーナ・デナーロを含むボスたちの命令で、誘拐された。12歳だった。
ジュゼッペの父親、サンティーノ・ディ・マッテオは元マフィア。ボスは、サンティーノが警察に寝返り、協力することを望んでいなかったのだ。25ヶ月にも渡る監禁の後、1996年1月11日、ジュゼッペは絞殺され、そして、酸で溶かされた。
「私は彼の死を望んではいない。兄が苦しんだと同じだけ、長く苦しんで欲しいんです」と大腸ガンの治療中のマフィアのボスの健康状態に言及し、ニコラは続けた。「この結末を待ち望んでいました。とても長い時間でしたが、当局は常に捜査の意欲を見せてくれていた。母?母は、このニュースに満足はしていますが、母の心の中にある痛みは、一生続くでしょう。喜びと苦しみが混ざったものとして。許しなど、不可能です。ジュゼッペに課した残虐な行為の前に考えられないことです。小さな子供だったんですよ。今から、彼は私の兄と同じように苦しまなければならない。彼のしたことは、人間としてあり得ない」”
1990年代は、さほど昔ではないですよね。
1980年終わりから1990年にかけて、マフィアはその残虐性を増し、血塗られた時代の恐ろしい記憶は、まだ人々の心に鮮明に残されているわけです。
ジュゼッペ・ディ・マッテーオの誘拐と殺害
乗馬クラブに通う小さなジュゼッペが誘拐され、酸で溶かされたニュースは、長い間イタリアでは深掘りされているので、イタリア語がわかる人にはあまり知らない人はいないと思うんですが、改めて、当時のニュースを詳しく紹介してる新聞があったので、こちらもご紹介しますね。
マッテオ・メッシーナ・デナーロが命じた最も凶悪な犯罪
最も”探された”マフィアのボス、マッテオ・メッシーナ・デナーロは、30年の逃亡の末、逮捕された。イタリア国家に対する組織的な攻撃と100までとは言わないまでも数10に及ぶ殺人、数々の重大な犯罪が告発されている。これらの多くは、直接彼が手を下してはいないものもあるが、警察の捜査とすでに検挙された何人かのマフィアの証言を再構築すれば、組織のボスたちの1人として、計画を首謀し命令を下したとされている。
私たちがよく知っているのは、ジュゼッペ・ディ・マッテーオの殺害だろう。
この殺人については、デナーロの命令の実行者の1人で、すでに逮捕されたジュゼッペ・キオードが、1998年の公判で詳細を語っている(後述)。
ジュゼッペ・ディ・マッテーオは、1981年にパレルモで生まれた。元マフィアである父親サンティーノは、殺人罪で1993年6月4日に逮捕され、司法取引に賛同した。司法と警察に協力する元マフィアを、スラングでペンティート(後悔者)とも呼ぶ。
サンティーノの証言で、とりわけ重要なのは、カパーチの虐殺(ファルコーネ判事の爆殺)とマフィア、インニャツィオ・サルヴォの殺害だ。コーザ・ノーストラのボスたちは、これらの自白の撤回を求め、1993年11月、当時12歳だった息子ジュゼッペを誘拐した。
誘拐犯は、マフィア対策の警官を装い、パパに会わせてあげると言って、息子に近づいた。当時の様子を、後に後悔者となったガスパーレ・スパトゥツァが「少年の目に、我々は天使のように映ったでしょうが、実際は、狼だった。彼は幸せそうに、「僕のパパ、アモーレ・ミオ!」と言ったのです」と証言している。
この瞬間から、2年以上の監禁拘束が始まった。監禁場所は、警察の目を逃れ、一定頻度で移動。すでに逃亡中だったマッテオ・メッシーナ・デナーロの隠れ家にも一時、置かれていたこともあるという。しかし、この誘拐でサンティーノが証言を覆すことはなかった。
最後の6ヶ月、ジュゼッペはパレルモの近郊にいた。組織内の重要人物、逃亡中だったジョバンニ・ブルスカに終身刑の判決が下ると、ブルスカはジュゼッペの殺害を命じた。
1996年1月11日。15歳になっていたジュゼッペを殺害した実行犯の1人、ヴィンチェンツォ・キオードは公判で、次のように殺害の様子を語っている(↓)。
というのが、事件の概要です。下に続きますね。
ちょっと具体的なので…ご自身の判断で。と一応言っておきますよ〜。
閲覧注意レベルの証言 子供を酸で溶かす悪魔の所業
(↑)実行犯の証言から。
私は、少年に手を挙げて壁の方を向き、ベッドの端に座るように命じました。少年は、私が言った通りに座ったので、彼の背後に回り、首にロープをかけました。ロープを力強く引きながら、床に置くと、ヴィンチェンツォ・ブルスカが腕をクロスして彼を抑え、モンティチョーロが足を押さえました。
モンティチョーロは足を押さえ、「ごめんね。君のパパが裏切ったんだよ」と少年に言いました。少年は、こんなことになるとは思っておらず、何も理解していませんでした。彼はぐったりとして何も反応がありませんでした。食事も与えていたし、何も不足はなかったが、確実に自由はありませんでした。少年はぐったりと柔らかく、まるでバターのようで…つまり、彼は何も理解していなかったと思う。死にかけていたことも、おそらくわかっていなかったと思います。一瞬だけ、ゆっくりと跳ねるようにだけ反応すると、もう動かなくなりました。ただ目だけが、目だけが動いていました。私が服を脱がせると、少年は失禁していました。怖かったのか、もしくは自然現象として。
腕時計などを外して、桶に酸を注ぎ、子供を運んで、私が足を持ち、ブルスカとモンティチョーロが腕を持って、酸の中に入れ、その場を立ち去りました。私が彼の様子を見に行くと、そこには背中の一部と足のカケラがあるだけでした。かき混ぜて見たのは、それだけです。そしてすぐまた立ち去りました。酸の悪臭がすごくて、息苦しかったから。それから、皆で眠りにつきました。
キオードのほか、2人の実行犯はヴィンチェンツォ・ブルスカとジュゼッペ・モンティチョーロ。
ジュゼッペ・ディ・マッテーオの殺害に関しては、10件以上が犯罪が控訴され、3人の実行犯に加えて、2012年には、逃亡中のメッシーナ・デナーロに終身刑が言い渡されている。
狂ってますよね。
これも代表的な事件の一つですが、これ以外にも恐ろしい事件が何百とあるわけですよ。今回の大ボス、メッシーナ・デナーロはその首謀犯。
アル・パチーノは酸で溶かしたかな?
と、言うわけで、こんなマフィアのボスを、ゴッドファーザーだなんだと、商品化された”マフィア”と混同してしまうのはどうか?と思うわけです。
そういう人がいっぱいいて驚いたんだわー。
素晴らしい映画ですが、アレはファンタジー。映画のイメージに先導され憧憬を覚えるのは危険だし、ましてやネタにして茶化すのも、今もまだ悼む人がいる中で、少々無神経な話よねぇ。
あと「シチリアはマフィアがいて危ない」と言うイメージも、情報が古すぎますから、そこのところよろしくですw。
歴史的な日になると言われる逮捕から、2日経ったパレルモは、いつもののんびりした日常に戻っています。
我が家は、病院と連絡が取れないのが問題くらい…。これもある種のマフィア被害?実行犯は、無関係な野次馬か。。。
ではでは、どうぞ良い水曜日を!
Buon mercoledi!
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